へたくそ吹奏楽部員と古楽の出会い
【はじめに】
はてなブログをお読みの皆さん、こんばんは。Gatesideです。
今年度から 転職をしまして、前職の不定休 自動車整備士から平日本社勤務のサラリーマンになりました!
というのは、ワークライフバランスを重視すると、土日休みの方が 僕の場合はるかにプライベートが充実しやすいからです。なので4月から、今まで以上に集中して 音楽や研究に取り組めるようになりました。
さて、本日のテーマは「へたくそ吹奏楽部員と古楽の出会い」です。
「古楽」とは何か。(←このタイトルでN. アーノンクールが分厚い本を出しています(笑))
古楽とは、「昔の音楽を 作曲家が生きていたころの楽器と技術で演奏する」
というものです。(ざっくり)
【出会いの経緯 ~吹奏楽部入部 ~ 古楽?なんじゃこりゃ!クラシックと全然違う!~】
初めて聴いた古楽のCDは、D. マンロウ(1942~76)の『春は来たりぬ(Ecco la Primavera)』(1969年 リリース)でした。
https://www.youtube.com/watch?v=Z6rA2x_lPq0
これについて語る前に、まずは古楽を知らない頃の私の話を書かせてください。
これを見つけたのは中学のころ、吹奏楽部でトランペットを吹いていた頃のことです。
なぜトランペットを選んだかというと、以前から父の影響でよく聴いていたM. アンドレ(1933~2012)(以降アンドレと表記)の演奏が大好きだったからです。アンドレはフランスのトランぺッターで、バロック時代の難関なレパートリーを得意としました。数ある中でも僕の一番好きだったのは A. コレッリ(1653~1713)のソナタ 作品5-8 (1700)の演奏です。
↓CD 「トランペットとオルガン」トランペット: M. アンドレ、オルガン: M.C.アラン
↓楽譜
https://imslp.org/wiki/12_Violin_Sonatas%2C_Op.5_(Corelli%2C_Arcangelo)
バロック時代も現代も、とても人気の曲で、様々なアレンジの楽譜が出ています。
アンドレの、とても美しく荘厳な演奏とオルガンの伴奏がとてもよくあっています。
他にもテレマンのコンチェルトやバッハのブランデンブルク協奏曲なども録音しており、名演ぞろいです。
こうして、トランペットを始めたわけですが、
なんと、難しくて 全くうまくなりませんでした!(笑)
ピアノは小学校から習っていたものの、そちらはやる気がありませんでした。
自分は全く音楽の才能ないんじゃないかと 落ち込んでいました。
しかし、楽器が下手でも 音楽を「聴く」のはとても好きでした。
自分の知らない曲を聴くのがとても好きで、いい曲と出会えた時はとても喜びを感じます!
岡田 暁生 『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』中公新書 (2009)
という本があります。その中の 第2章の最後のトピック『音楽を「する」/「聴く」/「語る」の分裂』というのがあって、18世紀後半から 音楽の市場が構築されていく中で「音楽をする」というのは「する」/「聴く」/ 「語る」の3つの立場に分かれるようになったと書いてあります。中学生の僕が好きだったのは「聴く」/「語る」の2つということになります。
吹奏楽部で扱う、所謂「モダン楽器」というのは 習得が大変です。そして僕の所属していた吹奏楽部は当時、コンクールで受賞することに大変力を入れていました。
ですので、部活の方針を岡田さんの区分で表すと、音楽を「する」ことに傾倒してることになります。
その中で僕は劣等生であったので、正直、メンタル的にとてもつらかったです。しかし、今考えると、3つの立場うち「聴く」/「語る」の2つを古楽によって養われたなと思います。
さて、ここでようやく マンロウの話に戻ってきます!
部活に気疲れして、たまたま手にした「Ecco la primavera」。日本語の副題は「中世ルネサンスの音楽」です。
冒頭、のドラムを聴いてびっくり仰天!
それまで ルネサンスといえば絵画しか知りませんでした。
キリスト教の中高一貫校に入っていたので、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルドの絵はよく目にしていました。
中学生の僕にとってルネサンスの印象は「芸術的で優雅な時代」でしたので、音楽も「優美なものであふれていたに違いない」と思い込んでいたのです。
ですが、マンロウの録音を聴いて「あれ、民族音楽か?」
楽器の音だけ聴くとそう聞こえるのも当然です。(後にジョスカン・デ・プレの曲を聴いて、優美で荘厳なものも知りました。)
しかし、当時の人々にとって 楽器の音色そのものはたいして重要ではなかったのです。
中世の音楽は、音楽の構造、現象を楽しむもの でした。
1度(ユニゾン)と、完全5度(CとG、AとE など)を尊び
現在 協和音程の3度は、この時代は不協和音程でした。
というのは、1度、5度は 自然界にありふれており、神が創った音、神の秩序の表れだとして大事にされていたためです。
これを自然倍音といいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8D%E9%9F%B3 より
Wikioedia先生に、自然倍音列の図がありましたので見てみてください。
3度は5番目。7度は7番目になってやっと出てきます。
遠い倍音なので 聞き逃しても無理はありません。僕も聞こえませんから。笑
(ヨーロッパでルネサンスが起こる前から、中世のイングランドでは3音を使って音楽をしていた。J. ダンスタブルがフランス人音楽家にこの技を伝えやがて大陸でも定着。産業革命もですが新文明は北からやってくるのかも。)
盛期ルネサンス(16世紀)になってポリフォニーの最盛期になっても、この考え方はうっすら残り続けます。
中学生の時にさすがにここまで考えませんでしたが、マンロウの録音の曲を下手くそだったトランペットで吹いてみていました。
部活で要求されるような大きな音量、ハイトーンは必要ない ということに僕はとても感動したのを覚えています。
音楽で人々を魅了するのではなく、音楽という「神に通じる秩序、調和(ハーモニー)」を分かち合うのがこの時代の音楽の目的なわけですから、部活扱っていた音楽とは目的が全く違うのです。
【まとめ】
だらだらと理屈を並べてしまいましたが、コンクールで人々を魅了するだけの部活に疲れていた僕は、古楽に出会って「音楽するってなんだろう?」と疑問を持つようになり、これは今でもよく考えることになっています。
吹奏楽部で扱う音楽も 中世、またはそれ以前の西洋音楽の血を引いているわけですから、このようなことを考え続けるのはとても大事なんじゃないか と思います!
これを読んでいる皆さんと、音楽の古くも新しい楽しみ方を分かち合えたらな!と思います。それではまた次回!次は「アニメオタクと古楽」です。